『空白の叫び』(☆4.9) 著者:貫井徳郎

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「普通の中学生」がなぜ殺人者になったのか?久藤美也は自分の容姿や頭脳が凡庸なことを嫌悪している。頭脳は明晰、経済的にも容姿にも恵まれている葛城拓馬だが、決して奢ることもなく常に冷静で淡々としている。神原尚彦は両親との縁が薄く、自分の境遇を不公平と感じている。〈上巻〉第一部ではこの3人の中学生が殺人者になるまでを、その内面を克明にたどりながら描く。その3人が同じ少年院に収容されて出会うのが第二部。過酷で陰湿な仕打ちで心が壊されていく中、3人の間には不思議な連帯感が生まれる。少年犯罪を少年の視点から描いた、新機軸のクライムノベル!

小学館HPより

 

やっと読み終わりました。さすがに全部で約1100ページに及ぶ大作、歯ごたえがありますね。しかも扱ってる内容がとにかく重いときてます。
じゃあ読むのが大変だったのかというと、決してそんな事がありません。分量的な長さはともかく、中身としては一気に読み終えたというのが正しいです。
貫井さんの作品はやはり本格志向の作品の方がすきなのですが、現時点での代表作というとこれを挙げなければいけないかなと思います。
とにかく一読をオススメします、はい。

 

ということで、以下ネタバレを含みます。



この作品は、そのほとんどの部分を殺人を犯した3人の少年達の行動を並列することによって描いています。
彼らが何故殺人を犯さなければいけなかったのか、という部分においての動機においては3者3様であり、それらに関しては同情できる部分はほとんどないでしょう。
ただまったく理解できないかというとそうではありませんでした。
彼らが心に溜めていた鬱積というのは、大なり小なり普通に生きていけば感じるものなのだと思います。例えば思春期における反抗期というのもそのあらわれの一種なのかもしれません。問題はその鬱積がオーバーフローした時に、自身が自覚しそれを制御できるかどうかという部分だと思います。

 

本作における3人は、葛城・久藤の二人に関しては犯罪時における自分自身の鬱積に関するものを自覚していたのに対し、神原はそれに対し無自覚であり他者(彼にとっては叔母)の為という動機を構築していたという違いがあります。
著者は3人の描写において、前者二人があくまで3人称であるのに対し、神原に対しては一人称だというのもその差別化があったのでしょうか。
少年院での過ごし方、そして出所してからの行動も彼らの違いが明確になっていきますね。
自分がなぜ犯罪者になってしまったのかという事に関して自分自身の責任を自覚してた2人に対して、神原は自分を正当化するたったひとつの要素となった叔母からの拒絶を受けることによって自らの犯罪を振り返る時間を失ったのではないでしょうか。
もちろん彼が裏切ったと感じた叔母の行動そのものには責任がありません。彼が殺人を犯す直接の要素は彼自身の中でただ孤独に作られたものだったからなのだと思いますから。

 

物語のラスト、彼は彼自身が利用したと信じ軽蔑していた人物達に裏切られそれが要因となり事故死してしまう事になります。
これに関して作者はあえて因果応報とう部分を強調しているような気がします。またそれも一つの論理でしょう。
彼自身最後まで自分自身の起こした行為について正当化しつづけたいう部分ではそれはあるいみ受け入れやすい言葉ですし。
でもこの問題は因果応報という言葉で片付けるのは難しいですよね。

 

作中で娘を殺された父親が久藤に、自分の心情を吐露する場面があります。
父親が久藤に対して因果応報という言葉とともに、憎み続け彼が社会復帰しようとするのを阻止したい気持ちは十分出来ます。
ただそれを無制限に誰もがしていいものかというと、どうしても釈然としない部分があったりなんかして。
また同時に被害者がメディアによって加害者のような扱いを受けるという部分も語られていますが、それもまた現代が抱える問題であり同時に少年法改正における問題点の一つになっているのではないでしょうか。

 

うーん、なんだか本の感想をあまり語ってないようなとりとめのない文章になりましたね~。
それだけいろいろなものを内包した作品であるということですかね。
みなさんおっしゃってましたが、続編というのも読んでみたい気がしますね。。。



採点   4.9

(2006.9.29 ブログ再録)