『クリスマス・テロル Invisible×inventor』(☆2.0) 著者:佐藤友哉

f:id:tairyodon:20190322203134j:plain


そこで出会った青年から冬子はある男の「監視」を依頼される。密室状態の岬の小屋に完璧にひきこもり、ノートパソコンに向かって黙々と作業をつづける男。その男の「監視」をひたすら続ける冬子。双眼鏡越しの「見る」×「見られる」関係が逆転するとき、一瞬で世界は崩壊する!「書く」ことの孤独と不安を描ききった問題作中の問題作。 Yahoo紹介

 

佐藤さんを薦めて頂いたゆきあやさんから「クリスマス・テロル」までは読んでみて、という事でついに辿りつきました。
他にもまじょさんからもこの作品に関してなんともいえないコメント頂いてただけに、期待と不安の入り混じる中(薄い本なので安心がプラス)読み始めましたが・・・

 

これをどう評価していいのか、というよりどう評価しろってんだよ!!っていうか、評価されたいのか!!って感じですね。

 

事件の方については、まあ、どうってことないです。文中に作者の言葉らしきものが差し込まれてたり、自虐的ともいえる物語の省略なんかもあったりして~、あ~やっぱりこっちの方向にきたのかという感じでそれなりに楽しんでました。密室のトリックに関する部分なんかは、京極さんのある作品と同系列に位置するわけですが、京極さんは物語の中でそれが成立する空間を構築して読者にトリックそのものを許容させた訳ですが、佐藤さんはそれすら省略されてるというか・・・。
まあ、この短さであれば十分許容範囲だと僕は思います。



コレ以降、作品の本質を考えるにあたり若干ネタバレ(?)に近い事が書いてあるので気をつけてください。
でも別にコレ読んだからといって作品には大して影響ないと思いますけどね。






というよりも、トリックを構築させる世界そのものが佐藤さん自身が抱いてる現実の環境に対する叫びなんですね。いってしまえば、私小説なんですか。そんな高尚な感じはしないですが。
ただこういうやり方そのものは、文学の世界においてはしばしば見かける類のものであって、それを否定するのは違うかなとは思います。
問題は後書きですよね。
この後書きで現在の自分の置かれている環境を語り、自分の小説を理解しない一般読者を嘆き、世界を見下し、断筆を宣言する。
それを、この小説のあとがきで自分の言葉を持って語ってどうするんだよ、と。それを読まされたこっちはどうしろと。

 

ここで佐藤氏は自分の作風に対して自分の価値観を世界へと注ぐタイプの人間といい、世界を創るような行為は不可能である、と論じています。
この比較の意味もよく分かりませんが、僕の認識で捉えるなら確かに佐藤氏の価値観を注ぐという行為は、既出の作品が作り出した(浦賀氏や京極氏、森氏や清涼院氏)世界の枠組みをひっくり返しばらし繋ぎ合わせる、そんな作業の上に作られているような気がします。そういう意味では既存の世界に自分の文章を注ぐという意味で、佐藤氏の自己認識は正しいのかもしれません。

 

ただその行為を行う場合は前出の作品のパワーに屈することないよう、それ相応の力が必要になってくると思います。その部分で佐藤氏の文章力、そして作中における引用の使い方をみていると、みずから消化することなく組み上げてしまった、不細工な物語にしかならないんじゃないでしょうか。
処女作、そして2作目はその不細工さが逆に物語の破綻とその壊れ方の無茶ぶりに繋がって作品そのものの面白さに結びついていたと思います。ただそれはあくまで計算外の不細工さであり、逆に3作目などはそれを意図的に積み上げてしまった為に作者の持っていたパワーが抜け、逆に未熟な部分の方が表層に現れてきてしまったのではないでしょうか。

 

僕自身の見解でいえば、世界を創るより世界へ注ぐほうがよっぽど難しいと思うんですけどね。なにより作者が評論家やネットにおける書評における無視や無関心の怖さを嘆く前に、自身の作品が講談社ノベルスの読者が求めるものとはほど遠いものになったと認識してるにも関わらず届くところには届くという根拠の無い自信を持つ前に、ほかに出来る事があったんじゃないだろうかと。

 

正直佐藤さんの文章はまだこれからだと思うけど、もっとひどい文章の作者が売れたりしているわけで、見限るにはまだ早い作家だと思うのでもう一度注ぐという行為を考えてみて欲しいですね・・・・ってまだ作品でてんのかよ!!



採点   2.0

(2006.6.25 ブログ再録)