『オリエント急行殺人事件』(☆5.0) 著者:アガサ・クリスティ

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 数日がかりでヨーロッパを走り抜ける豪華寝台列車オリエント急行。さまざまな国の客が乗り合わせたその日の列車は、雪の中で立ち往生してしまう。しかも車内で殺人事件まで起こった。殺されたのは、金持ちのアメリカ人男性。
 たまたまこの列車に乗っていた名探偵エルキュール・ポアロは、事件を調査することになる。犯人は乗客の誰かにまちがいない。ところが全員にアリバイがあるのだ。はたして、ポアロの推理は…。


Amazonより

 今年新作の映画が公開、とりあえずそれを見る前にということで、未読だった本作に挑戦。クリスティは最近になって読み始めた。正確に言うと、「そして誰もいなくなった」、「アクロイド殺し」「ABC殺人事件」は10代の頃読んでいたけど、クリスティの中で傑作の誉れ高いこの本は未読だった。

 その一番の大きな理由は、ネタバレだ。いつの頃だったか、どんな機会だったか忘れたけれど、この事件の真相について、読む前に知ってしまい、結果として手に取らないままここまで来てしまった。もし再映画化がされていなかったら、この本を読むのはもう少しあとになってだろうと思う。

 ある程度真相を知っている、そんな条件の中で読み始めたのだけれど、、、

 ああ・・・これは凄いなぁ・・・

 その一言に尽きると思う。作品のもっとも大掛かりな部分だけが語られる事が多い作品、それもさもありなんというぐらいの仕掛けではあるけど、それ以上にそれを成立する為に細部まで行き届いた描写が凄い。ネタを知っている前提で読んでいるので、逆にトリックを成立させる為にいかに描写に気を配っているかを感じ取りながら読むことが出来る。

 いや、やっぱりネタを知らずに読むにこした事はない。私の下手な感想を読むより、まず予備知識を持たずにこの作品を手にとって欲しい。

 クリスティの作品は殆ど読んでいないのであれだが、その特徴としてミステリ部分に対する肉付けとして、舞台となる都市であったり街であったりの描写や、あるいはそこに住む人々の会話を通じて読み手を本の世界に引きつけてしまうところがあると思うけど、この小説についてはその部分はかなり削ぎ落としている。

 なにしろ、舞台となっているのは雪で孤立したオリエント急行の中。辺り一面銀世界の中で、それまでの作品のような舞台の彩りは持たせようがない。さらにいえば、当然なのだけれど小説の半分以上は事件の起こった車両に乗っていた乗客たちの供述で占めている。

 それでもなお退屈しないのは、まずポアロを始めとした登場人物の魅力だと思う。自分の名を名乗れば誰でも感心すると思っているポアロ。それだけに、相手が自分の名前を知らないと気付くと、「信じられん」とちょっと拗ねてしまうあたりなんかは超絶キュートだ。

 また、容疑者となる列車の乗客たちも様々な国から集まった様々な職歴の人物が集まっている。それぞれの登場シーンでいえばその殆どが証言の場面のみ。その短い登場時間の中で個性をもたせた、驚くほどに醜悪なのに人を惹きつけるオーラーを持つドラゴミロフ公爵夫人、外見は立派だが檻から覗く猛獣のような目を持つ被害者ラチェットなどなど・・。

 彼ら容疑者のちょっとした、時には露骨に怪しい言動や行動、小説全体に散りばめられているヒント。さらに本来であれば警察による供述の裏付けを取れるところが、雪の中で孤立状態のオリエント急行の中ではそれすらもままならない。そんな状況の中ではポアロの推理もまたある意味ポアロ自身の裏付けのない推測にすぎない。
 それでもなお彼の推理が成立すると読者に思わせるのは小道具の使い方、そして容疑者とポアロの駆け引きの描写が素晴らしいからだと思う。その緻密さは、他の代表作に勝るとも劣らない。

 そしてすべての真相が明らかになった時にポアロが取る行動。たとえば今これを日本のミステリでしてしまうと、どうしても心情的に納得出来ないかもしれないが、当時の時代設定、そしてここに至るまでに築いた物語が、それをありにしていると思う。

 この小説が書かれたのは1934年。正直イギリス人は人を殺す時に刺したりしない、と登場人物がしたり顔で語ったりと時代の流れを感じさせる場面は無くはない。でもそれは今の時代に読むから感じる事だと思う。むしろ、クローズド・サークルの状況、魅力的ではあるが極限まで余分な描写を省いた登場人物の設定、ゲーム的とすら思わせてしまう事件の真相と、ラストの展開は、今の新本格以降のミステリで描かれる本格コードが詰め込まれていると思える。

 まさに時代を越えて読み継がれるに相応しい極上のミステリだと思う。



採点  ☆5.0