『アトミック・ボックス』(☆3.8)  著者;池澤夏樹

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 人生でひとつ間違いをしたという言葉を遺し、父は死んだ。
 直後、美汐の前に現れた郵便局員は、警視庁を名乗った。30年にわたる監視。父はかつて、国産原子爆弾製造に携わったのだ。国益を損なう機密資料を託された美汐は、父親殺人の容疑で指名手配されてしまう。 張り巡らされた国家権力の監視網、命懸けの逃亡劇。隠蔽されたプロジェクトの核心には、核爆弾を巡る国家間の思惑があった。社会派サスペンスの傑作!

Amazonより

 池澤夏樹、父である福永武彦の作品は大学の卒業論文のテーマに選んだくらいに愛読していたが、息子である氏の作品は初体験。読んだことがあるのは、『古事記』の現代語訳だけ。
 一体どういう文章を書いてどんな作風なのかはほとんど知識のないままだが、「キトラボックス」に興味があったので、登場人物が重なるという本作から挑戦した。

 物語としては、Amazonの紹介文にもある通り、社会派サスペンスの部類に入るのだろう。秘密裏に日本国内で行われていた原子爆弾製造を巡り、プロジェクトの一員だった父の資料を受け継いだヒロインである美汐が、秘密を守ろうとする国家権力から逃亡する。
 これだけで想像するとハリウッド映画にもなりそうな、一歩間違えると陳腐とすらいえる筋立てだし、実際に逃亡劇の中で美汐がみせた行動はアクション映画顔負けだったりする。

 それにも関わらず、物語のテンションは不思議なほどに盛り上がらない。いや、盛り上がらないというよりも、淡々と描かれているだけなのだろう。そう感じる理由の一つには、もしかしたら池澤夏樹の文章の持つ不思議な静謐さにあるのかもしれない。単純に見栄えの良いアクションを盛り上げるのではく、ただ淡々と登場人物の行動理念を紐解いていく。その筆致ゆえに、読み手は、単純なストーリーを構築する登場人物の姿をハッキリと感じることが出来る。


 彼女や彼女を取り巻く人達の行動は、敵味方を問わずなにがしかの使命感、あるいは倫理観に駆り立てられている。しかしその使命感を持つ理由は、行動する当人にすら掴めていない。彼女を追う公安であり警察達は、その立場によって情報にバイアスが掛かっている。

 序盤、追いかける理由も明らかにされないまま命令が故に美汐を追いかける警察官達は、自らの行動について疑念を持っている。それにも関わらず命令ゆえに彼女を追いかける。わけもわからないまま美汐の行方を追いかける彼らを支えるのは警察官としての使命感だけだ。
 秘密を抱えたまま死んだ美汐の父を、島の郵便局員に扮し長い間監視し続けた刑事もまた、長すぎる時間の経過に目的意識が揺らぎながらも、美汐の逃亡劇に執念を持って追いかける事になる。これもまた「組織」における個人の職業倫理が彼を支えているいえるのかもしれない。

 その極みというべきなのが、ヒロインの美汐だ。父の遺した資料からかつて父が参加していた原爆開発プロジェクトを知ることになり、その秘密を抱えたまま逃亡することになる。しかし、彼女には自分が何のために逃亡しているのか、逃亡して何をしたいのか明確に無い。ただ、父の遺したものを守るとう言う、いわば「個人」の存在を残す旅路を歩いているとすらいえるかもしれない。

 物語のクライマックスで、「個人」対「国家」ともいえるぶつかり合いをみせる美汐。亡き父が参加したプロジェクトが起こしたある社会問題をめぐり、フィクションでは在るがまるでノンフィクションのような重さをもつこの戦いは、「個人」としての池澤夏樹という作家が「国家」あるは「歴史」と対峙しているといえるだろう。

 東日本大震災とそれに続く福島原発の危機を巡る、様々な問題がこの作品には内包されている。クライマックスの戦いで、それまでのストーリーの熱量と静謐な文章がもたらしていた絶妙なバランスが一気にバランスを崩し、そこから「個人」という存在が溢れ出す。国家という社会的イデオロギーに、「個人」としての倫理がぶつかり、読み手に大きな渦を巻き起こす。その渦は、美汐あるいは亡き父の生きる道へと収斂していく。

 池澤夏樹という作家がこれまでどんな作品を紡ぎ出してきたか、そしてその中にどのような作家的イデオロギーを内包してきたかは分からない。
 それでもなお、ありふれたサスペンス劇の裏にある「個人」という存在の倫理観の柱が、危機に向かい合うことの出来る人間という存在であり、今の池澤夏樹という作家の歩んでいる道なんだろう。





採点  ☆3.8