『女を観る歌舞伎』  著者:酒井順子

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歌舞伎の女は、こんなにアツい!!

初めての男が忘れられず、遊女に身を落とすお姫様。「桜姫東文章 さくらひめあずまぶんしょう」
主君の子を守るために、息子を身代わりにする乳母。「伽羅先代萩 めいぼくせんだいはぎ」
親のために吉原に身を売ろうとする町娘。「文七元結 ぶんしちもっとい」

――歌舞伎の演目に出てくるのは、人生に必死な女ばかり。
彼女たちの気持ちに思いを馳せれば、もっともっと歌舞伎の世界が身近に感じられます。

興味はあるけど、難しそう……歌舞伎にそんなイメージを持っている人も、
これを読めば劇場に駆け込まずにはいられない!
単なる解説には終わらない、いちばん楽しい歌舞伎論です。
Amazonより

 ここ数年、意識して歌舞伎を見るようになった。とはいっても広島に住んでいると、生で歌舞伎を観る機会などなかなか無いので、もっぱらEテレ番組や、買ったDVD(さよなら歌舞伎座公演)、シネマ歌舞伎が中心になる。それでも去年は地元のホールに巡業公演が来て、松緑の『鳴神』を生で観れたのだけれども。

 さて、この歌舞伎論、というよりも歌舞伎エッセイ、女性から見た歌舞伎の女性という視点で語られている。劇中に登場するのは当時の女性ということで、今の時代なら無茶な理屈でも、当時の常識ではまかり通ってしまうというのがよく分かる。そんな無理な道理に女性の視点でツッコむ著者の意見はどれももっともと頷くしかない。

 各章それぞれの視点(嫉妬する女、罪な女、だめんず好きな女などなど)で、実際の演目を紹介しながら、そこに登場する女性たちの現代じゃ考えられない価値観に、著者でなくてもツッコミたくなる。

 たとえば第1回の「嫉妬する女」。紹介される演目は「妹背山女庭訓」ということで、歌舞伎好きなら誰もが知っている演目。大化の改新が題材(古っ)の物語の中で、三角関係の男女が登場します。
 酒屋の娘が恋した男は立派な許嫁を持っていた、それでも恋に狂った娘は嫉妬に掛かられ、男の家に乗り込みますが、最終的に刺されてしまいます。娘と恋仲の男、実は悪党・蘇我入鹿を討とうとする藤原鎌足の息子。入鹿が持つ霊力を封じるには、嫉妬に駆られた女の生き血が必要ということで、実は嫉妬に狂った女の生き血を入手するために、あえて嫉妬させられて殺されてしまうという、救われない役どころ。

 これが今の時代ならもうふざけるなって話ですが、娘は自分を刺した男(鎌足の家来)から「お前が好きな男の役に立ったのだ、あっぱれ」と褒められたら、「下賤な女の私を一時でも愛してくれたあなたの為になるのなら、死んでも本望よ」とのたまいます。とんでもない発想ですが、当時(作中の時代ではなく、作品が作られた江戸時代)の儒教的価値観がうかがえるお話です。

 また「無理する女」では、『伽羅先代萩』『菅原伝授手習鑑』というどちらも歌舞伎を代表する名作には、主家の為にあえて自分の子どもを身代わりに立て死なせてしまう親が登場します。これなんかも現在だったら炎上どころの話ではないわけですが、当時の感覚としては登場人物の価値観は至極当然な訳です。とはいってもただ、冷淡に子供の死なせただけじゃ悲哀が伝わらない。そこを魅せるのが役者の技量な訳で、『伽羅先代萩』の政岡が歌舞伎を代表する役なのもそういうわけでしょう。

 そもそも歌舞伎は書き手も演者も男性な訳で、案外とこうあって欲しいという男の願望が合ったりするところもあるだろうし、一方で嫉妬に駆られたストーカー男(あるいは女性自身がストーカー)による刃傷沙汰に巻き込まれるところなんかは、現代の昼ドラも真っ青だったりします。

 今でこそ人間国宝も生み出す古典芸能として敷居の高さを感じてしまいがちな歌舞伎ですが、本来は大衆演劇として庶民の楽しみの一つだったわけで、案外と気楽に楽しめるものだったりする。
 そういった本来の歌舞伎の楽しさを知るキッカケとして、歌舞伎を知っている人でも楽しめるけれど、歌舞伎を知らない人でも楽しめる歌舞伎論エッセイだと思うし、いい本だと思います。この本を読んだ人が少しでも歌舞伎に興味を持ってくれたらなと思います、はい。