『中庭の出来事』(☆4.0)



謎が謎を呼ぶ物語の輪舞。まず読者が解くべきは、小説内で何が起こっているのか?

瀟洒なホテルの中庭。
こぢんまりとしたティー・パーティの席上で、気鋭の脚本家が不可解な死を遂げた。
周りにいたのは、次の芝居のヒロイン候補たち。
自殺、それとも他殺? 犯人は誰? それとも、これもお芝居? 
互いに交錯し、乱舞するスレ違う場面。本領発揮! 
眩暈がするほど悩ましい、恩田ミステリ最新作。

新潮社HPより

こりゃまた、おんだりく~~~ってな本でございましたなあ。
入れ子状に交錯する物語、繰り返される語り、幻惑の光に包まれた真実、そして明かされない謎。。。
嫌いな人は嫌い、好きな人は好き。そんな小説。

とにかく作中で語られる事件のどれが虚構か、どれが現実かすら分からない。
そもそもの基準が分からないし、著者も設定していなのではないだろうか。
迷宮の中に読者を引きずり込むリーダビリティは素晴らしいと思う。
最初こそ繰り返される物語に戸惑うものの、次第にそのリズムに引き込まれてしまう。

読んでる途中からこれは一本の演劇の台本だなと感じていたのですが、読み終わってみると「演劇の台本」という物語という言葉が近いのかもしれません。
小劇場などで上演されるお芝居にはたまに客席にいる素人をいじることで笑いやドラマを引き出すものに出会う事があります。
でもこれは相当に難しい芸ですよね。ズブの素人が持つ笑いの要素を役者自身の力で引き出していかなきゃいけないわけですから。
実際半分以上の確率で、笑いを引き出す事に失敗することの方が多いのではないでしょうか。
(ちなみにこういう事に長けている劇団が『WAHAHA本舗』。久本雅美柴田理恵の二人芝居でみせた客いじりは素晴らしかったし、また看板の一人である梅垣義明もこれが抜群に上手いと思う。)

おっと話が脱線しましたか。
何がいいたいかというとですね、お芝居というのは客の前で上演した瞬間に完成されるもの。
そして本というのは読まれてこそ完結されるものだと僕が思っているということですね。
そしてこの本はその両方をミックスした作品ではないかと思うということ。
劇中に劇中劇を配するというのはお芝居ではよく見かけるパターンの一つ。
この作品でもそれが使われている設定になっている部分があります。そしてそれを考察する第3者らしき人物達が登場します。
しかしながらこの第3者のポジションも物語がすすむにつれて、その境界線が曖昧になっていき、最後には劇中劇に取り込まれてしまったとすら思わせる展開に。

僕はその瞬間、あるいはその過程の流れにおいて劇中の劇中劇すらさらにその外枠たる劇の中で繰り広げられる劇中劇になっていってるのではないかと考える訳です。
とするとそのもっとも外枠たる劇を見る観客はどこになるのかというと、この本の読者になるということになります。
つまりはこの本の読者は、『中庭の出来事』という小説の読者であると同時に劇中劇(あるいは作中劇『真夏の夜の夢』あるいは『告白』)の観客となってしまってるという事ですね。

さらに著者は作中で「外の世界」と「内の世界」について言及することによって、今読者が作品を読むと同時に観客となっているこの『中庭の出来事』が、実は完成していない物語であると匂わせてる気がしたのです。
作中の登場人物が作中の登場人物(ああ、書いててすごく複雑な表現になる・・・)を通して発せられる言葉は、読者が考える事によって初めて完成する物語だということを暗に伝えているのであり、だからこそ作中で語られる謎について核心部分を明確に語らないのではないかと。

つまりはもう究極の客いじり。キャリアの浅い作家さんには到底出来ない芸当。っていうかやられたら多分読者が怒ります(笑)。
恩田陸という作家が長年のキャリアの中で確固たる作風を完成させたからこそ許される技であり、また著者の豊かな文章の表現力の吸引力があるからこそある種不条理なこの物語を最後まで読み通させ、さらには考えさせることが出来るんだと思います。
時としてその不明確さがもどかしい恩田作品。でもこの作品には『ユージニア』と同じく不明確たる理由が感じられました。

徹底して虚構の世界を作品の中に閉じ込める事によって演劇のリアルな息遣いを再現した『チョコレートコスモス』、それとは対照的に虚構の世界を虚構のまま徹底的に開放することによって演劇というものを浮かび上がらせた本作。
果たしてあなたの好きな演劇はどちらですか?