レーン最後の事件

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サム警部のもとに現われた七色のひげの男が預けていった手紙の謎は? シェークスピアの古文書をめぐる学者たちの争いは、やがて発展して、美人のペーシェンスを窮地におとし入れ、聾者の名探偵レーンをまきこむ。謎また謎の不思議な事件続き。失踪した警官の運命は? ロス名義の名作四編の最後をかざるドルリー・レーン最後の名推理。!!

amazon紹介より




この作品で、ドルリー・レーン4部作もついに完結です。ってまだ『Zの悲劇』の記事しか書いてませんが。

うーん、非常に書くのが難しいですね。
これまでの3部作を通じて垣間見れるレーンの行動理念の積み重ねの先に今回の事件の終幕があるという感じなので、過去の作品に触れないと、どうもコメントしようがなくて・・・。

ということで、以下伏字で!!
これは完全に僕の主観ですが、レーンの探偵としてのスタンスには、ある種事件や犯人に対するリスペクトが存在するのではないでしょうか。事件を一つの舞台になぞらえて、その中でいかに傍観者たりえるかみたいな。ここでいう傍観者とは演劇でいう演出家であり、すべての展開を自分の支配下に置きたいといったような感覚といいますか、その手段としてレーンは探偵である事を選択したのではないでしょうか。

『Xの悲劇』で、明らかに第1の殺人の時には、ほぼ犯人を限定出来る状況下にありながら、第3の殺人が起こるまでレーンは事件を食い止めることできない。これは彼が決して単なる探偵という枠組みを越えようとした部分が影響しているような気がしてしょうがないのです。

これは、エラリィシリーズの中~後期の作品でも見られる操りの構造の変型とも考えられるのではないかと思います。
エラリィのシリーズにおいて、操りの行為は主として犯罪者側が行ってきましたが、レーンはそれを探偵として行おうとしたでのないか、と想像することも可能だと思います。

しかしながら、その一方で探偵として事件に関わる行為そのものによって、そこには傍観者たる自分を否定してしまう自己矛盾が発生してしまいます。その自己矛盾の発露が『Yの悲劇』の幕引きの仕方にも現れているのではないかと。

その結果として、『最後の事件』において、レーンは自らの演出家=探偵の構図を放棄して、一人の人間として行動しなければならなかったのではないでしょうか。もちろんそこには、正当なる探偵であるペーシェスの存在が必要となってきます。ペーシェスの存在があるがゆえに、彼は事件を操る側から事件に操られる側にその立場を移行していき、操られる側の宿命として、あの悲劇的なラストに結びついていくのではないかと思います。

うーん、深読み?


長くなりましたが、やっぱりこのシリーズは頭から順番に読むべきでしょうね。少なくとも『最後の事件』は他の小説を読んでから挑戦してほしい。でないと、この作品の面白さは完全に伝わらないと思います。