『ギデオン・マック牧師の奇妙な生涯』(☆4.0) 著者:ジェームズ・ロバートソン

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スコットランドの出版社に、半年前に失踪したギデオン・マック牧師の手記が持ち込まれた。彼は実直な人間として知られていたが、失踪する直前に神を信じないまま牧師になったことや悪魔と親し気に語らったことを告白し、信徒や国教会から非難されていた。手記には彼の生い立ちから、自分以外には見えない巨石の発見や悪魔との出会い、そしてなぜそれを大衆の前で語ったのかがすべて記されていた。それを読んだ編集者は手記を書籍として出版することにする。――編集者による序文、牧師の手記、そしてまた編集者の文章という独特の構成で、ある牧師の数奇な生涯を描くブッカー賞候補作。

Amazonより

 一体何が本当で、何が嘘なのか。

 牧師ギデオン・マックの失踪事件のあらまし(序文)、ギデオンが遺した文章(『ギデオン・マックの遺書』)、遺書に書かれた内容の調査(エピローグ)の三部構成となっているが、一見一つの流れの中に物語が存在するかのようにみえて、しかしそれぞれのパートで語られる物語は齟齬がある。ギデオン・マックという牧師が遺した言葉は果たして本当だったのか、それともまやかしだったのか、最後まで読者に委ねられる。

 そんな不確定な物語の中で、あえて全体を貫く一つの柱があるとすれば、それは観念、あるいは概念の問題ではないかと感じる。作中何度も繰り返されるギデオンの宗教観であったり、ギデオン・マックという器を作った大きな要素である父子関係の問題。

 ギデオンという人物を考えるにおいて、彼の考える宗教観に見られる神と悪魔の存在、あるいは父と子の関係性は表裏一体だ。遺書の中で、彼は何度も神を信じていないと難度も語る。時には堂々とその存在を否定している事を他者に語る。一方で彼はその人生の終末期、彼のいうところの悪魔という存在と実際に邂逅したと語る。しかし悪魔という存在は、神という観念の中にこそ存在しうる姿である。彼が否定し続けた神という概念を逆説的に認めるという事になる。

 また、かれはその幼少期、あるいは青年期に至る中で厳格であった父の存在に何度も反発している。牧師であるギデオンの父は厳格でありながら、一方で牧師はこうであるべきという強迫的な観念に囚われた人物として語られている。その観念を否定しながら、あるいは否定するために彼は神を信じていないと感じながらも、父と同じ牧神の道を歩む。宗教という一つの観念の中で表裏一体に父子の姿を重ね合わせる手法は、同時に時代の中で変容していく家族や宗教観を描いている。

 遺書の中で、かつて宗教の中では精霊という曖昧な存在ですら肯定されていた時期があり、それが今や唾棄すべき物として語られる事すら忌みすべきものとなっていると語られる。
 本来宗教(この作品でいうところの「スコットランド国教会」)というのは単純に神を信仰し救いを得るものであったはずが、時代を経るにつれて信仰するという行為そのものが目的化し、結果として信仰という器そのものが観念化して人々を縛っていく。

 それはギデオンだけはなく、彼を語る第三者達にも言えるのではないだろうか。ギデオンの死後、彼について語るそれぞれの人達の言葉はいっけんギデオンの遺書よりも筋が通っているように思える。しかし、一見筋が通っているようにみえるその解釈は、それぞれの語り手の観念(器)を守るために創られた物語のようにも見える。その感覚は、遺書の中でも、特に宗教家が語る言葉の中で彼らにとって都合の良いようにすり替えられているとギデオン自身が指摘している部分にも通じる。

 ギデオンの人生に大きな影響を与える事になった彼しか見たことがない「岩」の存在は、彼が信じようとする観念の具現化とも捉えることが出来る。物語の最終盤、この「岩」について語られる登場人物の言葉が、いったい誰の言葉が本当で、誰の言葉が嘘なのか、最後の最後に大きく揺らがせる。
 そもそも嘘をつかない(はずという概念)の牧師であるギデオンが、牧師に集う人々に宗教を説くという行為が逆説的であり、また彼の言葉が真実であるならば、物語に登場する別の牧師ですら信仰という自分の観念を守るために嘘を真実として語り出す。

 すべてが真実であり、すべてが嘘である。この小説で語られる辻褄の合わない物語こそは、人間が生きるうえで必要なものを、自己解釈的に創り出す事によって生きる事ができる存在であるという事を示しているのかもしれない。それを創り出すのが創造力であり、物語を読むということは創造するという事にも繋がるといえるかもしれない。

 現代の物語でありながら、どこか中性的な古めかしさを持ち合わせる本書も間違いなく創造力を働かせる事が出来る小説であり、繰り返しの再読に耐えうる作品だと思う。



 


採点  ☆4.0