『随筆古文書紀行 まぼろしの厳嶋大仏』(☆3.0)  著者:山田道信

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『厳嶋道芝記』など古文書に記されていたにもかかわらず、宮島「大仏原」から消えた丈六仏〈厳嶋大仏〉の行方を求め、秘められた謎の歴史を繙く。その仏は海を渡った――。

「台座や光背はなく、像の所々に金箔が残っている。膝から下の部分の損傷が特に激しく、破却された名残かも。往時は台座や光背もあり、全身金色に輝く、素晴らしい黄金仏であったと想像される」(本文より)

Amazonより


 広島・呉で生を受け、今は宮島の対岸で暮らす自分にとって、宮島(厳島神社)というのは、そこにあるのが当たり前の存在だった。
 世界遺産になったときも、在るのが当たり前すぎてここでいいの?と思った。日本三景である天橋立を見た時、宮島よりも三景の美しさがある、と思ったのは、宮島の景色が馴染み過ぎていたからかもしれない。

 宮島にも数え切れないほど渡り、厳島神社や神社を取り巻く寺社にも参拝し、歴史民俗資料館にも何度も訪れていたが、「厳嶋大仏」の存在は知らなかった。著者が歴史民俗資料館でたまたま手に取ったという『厳嶋道芝記』という本も聞いたこともない自分だから、知らないのも当たり前なのだろう。

 知人から解読を頼まれた古文書(江戸時代の若殿が宮島を訪れた際の記録)の中に出て来た「大御堂」という見知らな名称に惹かれ宮島を訪れる。そこで出会った「厳嶋道芝記」の中にあった「大阿弥陀堂」という名称、さらには「芸藩通志」「芸州厳島図会」に目を通し、現在は行方が分からなくなっているという「丈六仏(厳嶋大仏)」の存在を知る。
 様々な文献をあたり、空想を拡げ、ついには厳嶋大仏であろう一体の仏像に辿り着く過程は、けっして緻密な研究と理論の結果というわけではないものの、一つの探求の物語として面白い。

 たった一つの言葉に興味を持ち、そこから謎を発掘し、答えを追い求める。厳嶋大仏を巡る著者の旅は、学ぶということの理想形だと思う。著者は民間会社を定年退職後、ある思いにより古文書学を収めている。その過程で学ぶことの面白さを会得(といっても著者歴を見ると、京都大学を卒業しているので学ぶことそのものには慣れているだろう)しているから、知らないフレーズを研究対象にして、ここまでできたのか。

 『厳嶋道芝記』を読んでいないから、厳島大仏の存在を知らないのも当たり前だ、といったが、もし『厳嶋道芝記』を読んでいたら「大御堂」という言葉に興味を惹かれたはず、とは言えない。むしろ何も気づかずに読み終えるだろう。
 旅の最後に著者が厳嶋大仏とした大仏の在る場所は、僕の知る場所だった。何度もその前を通っていた。そしてなにも知らない、興味を持たないまま過ごしてきた。
 そう考えても、いわゆる専門家でない在野の著者が示した道は賞賛すべきである。

 ただ読んでいて、ところどころ上から目線的な、思ってても言わなくていいだろうとい部分が散見していたことだけは個人的に引っかかった。
 本書は専門家による研究書ではなく、在野の古文書愛好家(在野において、専門家と愛好家の区別は難しいけれど)による随筆という位置づけでもあり、そこまで言うのは少し違うのかもしれないが、折角の努力による検証結果に味噌をつけてしまっているように思うのは、好みの問題だろうか。


採点  ☆3.0