『FAKE』  監督:森達也

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あらすじ

 2014年にゴーストライター騒動で日本中の注目を集めた佐村河内守をとらえたドキュメンタリー。監督は、オウム真理教を題材にした「A」「A2」の森達也。
 聴覚に障害を抱えながら「交響曲第1番 HIROSHIMA」などの作品を手がけたとし、「現代のベートーベン」と称された佐村河内。しかし音楽家新垣隆が18年間にわたってゴーストライターを務めていたことや、佐村河内の耳が聞こえていることを暴露。佐村河内は作品が自身だけの作曲でないことを認め騒動について謝罪したが、新垣に対しては名誉毀損で訴える可能性があると話し、その後は沈黙を守り続けてきた。
 本作では佐村河内の自宅で撮影を行ない、その素顔に迫るとともに、取材を申し込みに来るメディア関係者や外国人ジャーナリストらの姿も映し出す。


 この映画を見るために、久しぶりに地元のミニシアターに行く。昔はよく通っていたけれども、今も変わらず独自の上映プログラムをしていてちょっと嬉しかった。

 今回の映画は佐村河内守氏のドキュメンタリーだ。聴覚障害の作曲者として一斉を風靡しながらゴーストライター事件でその姿を消したかつてのスターだ。この作品では事件後の彼とその妻の生活に密着している。

 事件以降のTV報道を思い返してみると、その殆どがアンチ佐村河内氏の視点だ。事件を最初に報道したライターの神山氏、そしてゴーストライターであったと告白した新垣氏が時に真剣に、時にバラエティのいじられ役としてTVの中に登場してきた。その姿を映画の中で執拗に見続ける佐村河内氏。特に新垣氏への執着は凄まじく、その映像をネット動画で確認するほどだ。言葉では彼の言葉の嘘をこれまでの体験、あるいはデータ的物証を持って糾弾する佐村河内氏の瞳の奥に、彼のどのような思いが隠されているか、分からない。ただただ見つめるだけなのだ。

 監督である森達也は「佐村河内守の悲しみを映像に収めたい」と語っている。実際、作品は佐村河内の立ち位置に立ったまま全編がすすんでいく。反対の立ち位置である神山氏や新垣氏には、作中インタビューを申し込むが最終的に拒否されている。
 佐村河内氏の主張としては、事件発覚直後の報道において、メディアがこちらの提出した情報を切り取り自分たちの望むストーリーを組み上げ、それを見た視聴者は盲目的にそれを信じたことで、自分は全てを失ったとメディアの姿勢を糾弾する。

 作中何度も彼の口から発せられるメディア批判は、ある意味一つの真実ではあるのだろうと思う。それはメディアだけでなく視聴者批判にも繋がる。メディアで報道されることに対して、僕を含めた視聴者の殆どが無自覚に信じることが殆どだと思う。いや、もしかしたら、そうであったら面白いな、悲しいな、楽しいなという感情がその無自覚の裏にあるのかもしれない。
 そして、視聴者が自分自身のストーリーを持つ過程で、それにそぐわない情報は意図的に忘れ去られることもあるかもしれない。情報の取捨選択はある程度視聴者に委ねられていることが多いが、それゆえにその材料として提供される情報の客観性・信憑性が重要になってくると思う。そういった意味では、その大前提の情報ですら正確に報道されないという佐村河内氏の批判は、なるほどと思わせる部分も多い。

 ただし、ここでもう一度森達也の言葉を借りると、森は「悲しみが撮りたい」と言っているだけであって、「真実が撮りたい」と言っているわけではない。実際に作中で森は佐村河内氏の事を信じるといいながらも、その一方で何度も佐村河内氏に対してかれの発言の信憑性を疑っていると思わせる質問を何度も投げかけている。その言葉に対する佐村河内氏の発言や様子を見て、観客は何度も不安になる。このドキュメンタリーを私は信じていいのだろうかと。

 そもそもドキュメンタリーとは何なのだろうか。一般的にドキュメンタリーは、映画フィルムもしくはビデオなどの映像記録媒体で撮影された記録映像作品を指す、と言われている。ドキュメンタリー=記録なのであれば、確かにこの映画はドキュメンタリーなのかもしれない。ただし、そこに客観性を求めるのであれば、話は少し違う方向に進む。
 この作品は、ドキュメンタリーであるが、映画でもある。そこには監督である森達也の主観が存在し、記録としてスクリーンに映し出される映像は彼によって切り取られた一部分に過ぎない。言ってしまえば佐村河内氏が批判するメディアの作り方と一緒なのであり、実際に監督である森はかつて「ドキュメンタリーと劇映画に本質的に差は無い」と語っている事もからも、この作品の方向性は明らかなのだとおもう。

 この作品をドキュメンタリーとしてどう感じるか、どう信じるかは結局観客に投げられている。この映画のラストカットの突き放し方はまさにその象徴であり、佐村河内守という存在の不確定性とあいまって、ドキュメンタリーと劇映画の境界線を曖昧な物にし、監督の回答を求めていた観客を置いてけぼりにする。それもまた森にとっては、この映画を撮った目的の範疇外の事なのかもしれない。

 ネタバレになるので語らないでください、というラストの12分間。この場面を感動的と捉えるか、虚構の象徴として捉えるか。
 すべてのは観客の思うままであり、近年稀に見る見終わった後に誰かと語りたくなる映画である。