『玻璃の天』(☆4.6)



ステンドグラスの天窓から墜落死した思想家。事故か、殺人か。英子の推理が辿り着いた切ない真相とは。謎に包まれていたベッキーさんの出自も明らかに。
令嬢と女性運転手、昭和初期を舞台にしたシリーズ第2弾。 

yahoo紹介より

シリーズ第1作の『街の灯』も素晴らしい小説だったけれども、第2作はそれ以上に静かな深さを感じる作品だった。
それだけに北村薫の凄みを感じさせる珠玉の1冊であることは間違いないかもしれない。
少なくとも私の中では、不動のNo.1だった『冬のオペラ』がその座をこの作品に譲った。
前作を含めて収録作同士の繋がりがより一層出てきた事も、より作品としての吸引力が出てきたと思うし、英子やベッキーさん、さらには狂言回し的存在だった英子の兄も以意外な一面を見せたりと、より細かい部分まで気を配られてるな~という感じです。

それにしてもこの雰囲気はどうでしょう。
まるで昭和初期の東京が眼前に広がってるような気分にさせてくれます。
もちろん情景という部分だけではなく、その時代の香りというのも内包させて読者に伝える表現力にはただただ感服。
決して時代の流れからは逃れ得ないながらも英子がそれでも懸命に成長しようとする姿、そして時代に翻弄されつつもただ真っ直ぐに道を歩こうとするベッキーさん。
そしてそれ以外の登場人物達も、時代を見据えながらも生きようとしています。
決して押し付けがましい筆致ではないにも関わらず、北村さんは鋭く読者の前に提示していく。
これだけの小説家が土壌をミステリに置いているということは、ミステリ読者にとっては大変幸せだと思います。

全三部作予定というのが実に口惜しい。
いまかれでも全10部ぐらいのシリーズしてほしいものです(←欲張り過ぎ?)。

それではそれぞれの収録作の感想を。


『幻の橋』

流れの中心にあるのは「生者の死亡広告」。それ自体も魅力的だし、散りばめられたヒントを収束した解決も論理的で楽しめた。
ただやはりこの短編で印象に残るのは英子のロマンスとラストの車中のシーン。
ロマンスでいえば、自らの立場を恥じる英子の姿が決してお嬢様的なものに収まってないところが素晴らしいし、それを受ける若月の言葉もまた鋭くも優しい。
コレ以降再び登場するのかと思ったら今回はもう登場しなかった。
そういえば「円紫さんシリーズ」の私も、第2作『夜の蝉』の1話目「朧夜の底」でロマンスを感じさせたものの、確か相手の男性はそれ以降登場しなかった気がする。果たして今回はどうなるのか。
そして物語の締めくくりたる後者の場面もまた素晴らしい。
時代に迎合した国家論を嘯く政治学者に痛烈な一言を決めるベッキーさん、そしてそれを受けて実に素晴らしい答えを見せた桐原勝久の行動。
ベッキーさんの過去への伏線となるこの物語の閉じ方がじつに凛として心地よかった。


『想夫恋』

冒頭での「あしながおじさん」から始まり、暗号を解明し真相に辿り着くまで実にミステリ風味に彩られた作品。
途中に挿入されるミステリ小噺も実に可愛く、そして粋だ。
いろいろな意味で物語の行き着く先に意外性はない。たとえ暗号が解けなくてもそこには辿り着く。
しかしながらそのラストはあまりにも微笑ましくも、人生を強く生きようとする人の心が心に染み込んでくる。

―爪音しきり想夫恋。

何気ないこのラスト一行に、万感の想いを込められる作家はそうはいない。


『玻璃の天』

表題作であると同時に、ベッキーさんの過去が明かされる衝撃作。
第1話からの伏線が描き出すベッキーさんの過去はあまりに悲しい。一人の人間として凛とした姿をしていながらも、決して表に立とうとしないベッキーさんの生き方が、あまりに悲しい。ただそんな彼女を全身で受け止める英子がいるからこそ、彼女は生きている理由を見つけたのかもしれない。
本当に二人の信頼関係が羨ましい。

もう一つ印象に残ったのは、与謝野晶子の有名な詩「君死にたもうことなかれ」の解釈だ。
前文を掲載してみる。

ああおとうとよ 君を泣く
君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたもうことなかれ
旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
ほろびずとても 何事ぞ
君は知らじな あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたもうことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
獣(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん

ああおとうとよ 戦いに
君死にたもうことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましく
わが子を召され 家を守(も)り
安しと聞ける大御代(おおみよ)も
母のしら髪(が)はまさりぬる

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にいづま)を
君わするるや 思えるや
十月(とつき)も添(そ)わでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたもうことなかれ

詩としての完成度の云々ではない。
作者の魂がひしひしと伝わってくる、素晴らしい詩だと思う。
この死が引用される場合は往々にして、日本が日露戦争に沸くなかでこの詩を読んだ女史への賞賛と、戦争というものの側面を端的に表したことへの賞賛である。
それ自体に反論する気もないし、私自身もこの詩には心をうたれるものがある。
しかしながら、著者は英子の兄を通じて別の解釈としての戦争の悲劇を導き出す。
その解釈自体は、コロンブスの卵ではないが良く考えると十分に考えられるものだと思う。
と、同時に中々その側面からは考える事はないのではないだろうか。
物語の精神的伏線たるこの解釈を誰でもない、普段はチャランポランに見える英子の兄の口から語らせる著者の選択が実に絶妙なんだと思う。
例えどのような生き方をしようとも激動の時代を感じざるを得ない昭和初期を感じさせた1シーンだと思う。

果たしてこの物語はどこに行き着くのか。
それはもう著者にしか分からない。。。


採点  4.6