『きみとぼくの壊れた世界』(☆3.4)



維新、全開!これぞ「きみとぼく」本格ミステリのすべて!
ミステリの伝言ゲームは続いている!

禁じられた一線を現在進行形で踏み越えつつある兄妹、櫃内様刻(ひつうちさまとき)と櫃内夜月(よるつき)。その友人、迎槻箱彦(むかえづきはこひこ)と琴原りりす。
彼らの世界は学園内で起こった密室殺人事件によって決定的にひびわれていく……。
様刻は保健室のひきこもり、病院坂黒猫(びょういんざかくろねこ)とともに事件の解決に乗り出すが――?『メフィスト』に一挙掲載され絶賛を浴びた「体験版」に解決編を加えた「完全版」。

講談社HPより

これまたすご~く、評価に困る作品でした^^;;

発行でいうとちょうど『ヒトクイマジカル』の後、さらにはその直前には『ダブルダウン勘繰郎』。
つまりはノリにノッテル頃の西尾維新(多分)。

その著作の中でも珍しいくらいな本格ミステリー寄りの作品。たぶんこれが一番正統派。
そういった意味では今まで敬遠していた本格好きの方にも楽しめるかもしれない。
メフィスト連載時は犯人当てとして発表された『もんだい編』。それ以外の『たんてい編』『かいけつ編』が書き下ろしってことは、正解が知りたければ本を買えということなんだろうか^^;;
ちなみにインターネットで調べてみると、犯人当ての条件は

犯人当ての条件を事件関係者六人に限定し、「犯人」「策(トリック・ギミック)」「企み(理由・狙い・目的)」の三つを推理する。

これだけ読むとまあ妥当な条件と思われるかもしれない。
ただたんてい編における情報量が圧倒的に少ないので少々骨が折れる。なんたって殺害方法も死体の発見状況も語られないのだから。(←ちなみにこれは最後まで語られない。)
逆にいえばなぜ一般的なミステリで語られる部分を確信犯的に排除しているのかを検討すれば、犯人当ての推理方法が浮かび上がる手法となっている。
これは作中で語られる推理小説における魅力とそこから発生する矛盾点(端的にいえば作品の中でも触れられている『後期クイーン問題』)に対する、西尾からのアンチテーゼ、あるいは逆説としての解答なのかもしれない。
そういった意味では徹頭徹尾本格に彩られた西尾作品としては異色のポジションといえるかもしれない。

ただ最後の「企み」部分の解答に関しては、西尾維新の読者でないともしかたしたら想像しにくかもしれない。
まあそこまで深く考えなくても、「犯人」「策」というところに関して容易に解ける気もするのだけれども。

ここまでの記事を読まれると、犯人当てとしては多少アンフェアな香りがするものの、まあまっとうな本格と思われるかもしれない。
ただそこはやはり西尾維新、ただじゃあすませません。
当時続刊中だった『戯言』シリーズと同じ用に、文章は過剰なほどに装飾されています。
もちろんそれが西尾氏の持ち味であるし、私も含めファンには堪らないところなのだが、如何せん今回はそれが余りに溢れすぎている。
前述した『後期クイーン問題』や『フーダニット』『ハウダニット』『ホワイダニット』の優劣的順位の考察など、この小説が本格なんだぞという過剰なまでの装飾が伺える。
一方でそれが過剰になればなるほど、読者はそこから置いてけぼりになってしまう。

やっかいな事にそこまで装飾された本格の作品における帰結地点が、トリック(方法論)やロジック(論理)ではなく、リリック(言葉)であるのだ。
事件が一つの解決を見せる(それは決して事件の終結ではないのだが)場面において、作中語られた本格推理の要素がなんの役にも立っていない事に気づかされる。
むしろそれらは語られることによって解体され、まったく別のもの、ここでは主人公達が生きる世界(あるいは物語の世界観)として新たに構築されてしまう。

もしかしたら、この作品は西尾自身の本格ミステリへの愛情から生まれたアンチテーゼであり、一方で本格ミステリ作家西尾維新としての別れの挨拶なのかもしれない。
こう考えてしまうのは、深読みにすぎるのだろうか。。。

うん、多分深読みしすぎだな。そこまで深く考えては書かれてないと思う。
そしてエピローグ・・・・こんな関係は速攻崩壊してしまうのではと思うのは気のせい^^;;

いやいや、それにしても「キララ、探偵す」の濃厚ベッドシーンにも参りましたが、こちらの近親相姦的タブーの取り扱いにも参りました。
どうも最近はコアな要素を持つ小説を引き当ててる!?

採点的には見るべきものはあるものの、正直読みにくさも多分にあったので、あまり高い評価はできないかな~。


採点  3.4