1930年、ベルリン滞在中のアントナン・アルトーの前に現れた日本人青年は、ローマ皇帝ヘリオガバルスと信長の意外なつながりを彼に説いた。ふたりはともに暗黒の太陽神の申し子である。そして口伝によれば、信長は両性具有であった、と…。ナチ台頭期のベルリンと戦国時代の日本を舞台に、伝承に語られた信長の謎が次々と解き明かされて行く。第11回日本ファンタジーノベル大賞受賞作。 yahoo紹介より
もったいない。ただ一言。
実在する演劇家アナントン・アルトーと創作上の人物(?)総見寺によって語られるローマ皇帝ヘリオガバルスと織田信長の共通点。
その下敷きにはアルトー著『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』があると思うのだが、いかんせん未読なのであくまで勝手な想像。
ただ、この作品自体は創作であるのであくまでアルトーも創作上の人物と捕らえた方がいいのかもしれない。
その下敷きにはアルトー著『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』があると思うのだが、いかんせん未読なのであくまで勝手な想像。
ただ、この作品自体は創作であるのであくまでアルトーも創作上の人物と捕らえた方がいいのかもしれない。
ヘラガバルス(Elagabalus)あるいはヘリオガバルス(Heliogabalus)(本名、マルクス・アウレリウス・アントニウス(Marcus Aulerius Antonius)、203年3月20日-222年3月11日)は古代ローマ帝国セウェルス朝のローマ皇帝である。在位は218年-222年。
ヘリオガバルスの名はシリアのエメサ(現在のホムス)で崇拝された太陽神の名、ヘラガバルスはそのラテン語化に由来する。マルクス・アウレリウス・アントニウスは自らをエラガバルスの最高司祭と称して、220年この神を帝国の最高神とすることを図り、ローマにその神殿を築かせた。しかしやがて民衆の支持を失い、わずか18歳で周囲から見放され222年に近衛兵によって暗殺された。
彼については異常で堕落の極みのような逸話ばかりが目立ち、古代ローマの中でも代表的な退廃皇帝といわれている。
ヘリオガバルスの名はシリアのエメサ(現在のホムス)で崇拝された太陽神の名、ヘラガバルスはそのラテン語化に由来する。マルクス・アウレリウス・アントニウスは自らをエラガバルスの最高司祭と称して、220年この神を帝国の最高神とすることを図り、ローマにその神殿を築かせた。しかしやがて民衆の支持を失い、わずか18歳で周囲から見放され222年に近衛兵によって暗殺された。
彼については異常で堕落の極みのような逸話ばかりが目立ち、古代ローマの中でも代表的な退廃皇帝といわれている。
さらに詳しいエピソードなどはこちらを参考にして頂きたいのだが、この作品の主題があくまで信長である以上、作中において語られるヘリオガバルスはその共通点のみが切り出される形なのでこの退廃皇帝の実情が見えてこない。
物語の構成として第2次世界大戦直前のベルリンと、信長の駆け抜けた時代が交互に描かれるのだが、ベルリン部分の描写に圧倒的に読みにくさを感じるのはやはりこのバランスの悪さに原因があると思う。
このベルリン部分においてはほかにも一定の知識を有してないと理解しにくい単語や説話があり、小説といようりは評論を読んでいるような気分にさせられてしまった。
このあたりはデビュー作ということでの未熟さなのかもしれない。
物語の構成として第2次世界大戦直前のベルリンと、信長の駆け抜けた時代が交互に描かれるのだが、ベルリン部分の描写に圧倒的に読みにくさを感じるのはやはりこのバランスの悪さに原因があると思う。
このベルリン部分においてはほかにも一定の知識を有してないと理解しにくい単語や説話があり、小説といようりは評論を読んでいるような気分にさせられてしまった。
このあたりはデビュー作ということでの未熟さなのかもしれない。
一方でアンドロギュヌスたる信長が描き出す濃密かつ妖しい戦国絵巻は魅力十分である。
山田風太郎ばりに繰り出される妖術によって斃されるライバル達。そして信長そのものの魔力的魅力に傾倒していく羽柴秀吉、明智光秀。
とくに狂気ゆえに信長を盲信する秀吉の姿は、とり憑かれた人間の美しい狂ひを感じさせた。
それだけに、無理にヘリオガバルスとのリンクを語る必要もなかったのではないか。
これをいったら主題的に本末転倒的になるのかもしれないが、もしヘリオガバルスとのリンクを描くのであれば信長の物語の中に閉じ込めていけば面白かったかもしれない。
そのあたりの課題的なものは『黎明に叛くもの』などでは解消されているところを見るとあくまで著者の小説家としての経験の少なさが露呈しただけかもしれない。
山田風太郎ばりに繰り出される妖術によって斃されるライバル達。そして信長そのものの魔力的魅力に傾倒していく羽柴秀吉、明智光秀。
とくに狂気ゆえに信長を盲信する秀吉の姿は、とり憑かれた人間の美しい狂ひを感じさせた。
それだけに、無理にヘリオガバルスとのリンクを語る必要もなかったのではないか。
これをいったら主題的に本末転倒的になるのかもしれないが、もしヘリオガバルスとのリンクを描くのであれば信長の物語の中に閉じ込めていけば面白かったかもしれない。
そのあたりの課題的なものは『黎明に叛くもの』などでは解消されているところを見るとあくまで著者の小説家としての経験の少なさが露呈しただけかもしれない。