④『柳生十兵衛死す』(☆4.0)~「時代もの、大好き」その④

「時代もの、大好き」






あらすじ

鴉がしきりに鳴く…。茫々と薄墨に染まる木津川の河原に一人の男があおむけに倒れていた。抜きはなった刀身は血ぬられ、脳天から鼻ばしらに絹糸のような刀のすじが見える。「こんなことが!我らの殿をかくも見事に斬るとは!」。死者は天下無敵の剣豪・柳生十兵衛であった。が、開かぬはずの方の目がかっと見開いていた!室町と慶安を舞台に250年の時空を超えて飛び交う柳生十兵衛二人―満厳と三厳。剣の奥儀と能を媒介とした壮絶無比の大幻魔戦。伝奇小説の大御所が放つ畢生の大傑作。(上巻)

十兵衛はふしぎな感覚にとらえられていた。謡の声、笛、鼓が耳の奥で響いている。金春竹阿弥の声がした。「十兵衛さま、あなたさまはご先祖の満厳さまに変身されたのです!」「冗談ではない、前の帝・月ノ輪の宮とお前の倅・金春七郎に後水尾天皇が刺客を放たれたので、助っ人に乗り出したとこだぞ!」。そして竹阿弥もなんと世阿弥に変身していた!天皇の地位、幕府転覆をねらう大陰謀に足利義満、一休、後水尾天皇由比正雪紀伊大納言頼宣がからむ。剣豪柳生十兵衛の剣と人間くささを描き、奇想天外かつ幽玄な究極の時代小説。

yahoo紹介より

感想

柳生忍法帖』『魔界転生』に継ぐ「柳生十兵衛三部作」完結編。
過去2作も異形の物語でしたが、この作品もまたアイデアが図抜けています。

時代物SFの中でもタイムスリップにより時空を行き来するという話は多々あるだろうと存じますが、この作品の秀逸なところは時空の架け橋たるタイムマシンの役割を「能」という古典芸能に与えたところでしょう。
歌舞伎でも狂言でもなく、「能」。言われていみると大よそ日本の古典芸能の中でこれほど幽玄的なものはなかなか無く、特に蒔能におけるそれはまさにこの世あらざる不思議な空間(宮島での蒔能を拝見した事がありますが、その雰囲気はただ事ではありませんでした)。
さらに江戸慶安の十兵衛には、中興の祖金春竹阿弥、室町の十兵衛にはまさに能の開祖ともいうべき巨星世阿弥という人物を配する事によって、室町と慶安の世の行き来する複雑な物語に一本筋を通します。この辺の組み立て方はさすが山田風太郎

さらには紀伊大納言、由比正雪といった柳生十兵衛といえばお馴染みの悪漢(?)にあわせる様に、室町では王の中の王、日本史史上臣下として最も皇位に近づいた男足利義満を登場させ、さらにはアニメでお馴染みの一休禅師(幼少時)も登場させます。
これにより室町・慶安の二つの時代で起こる一代騒動が完全なる二重構造を構築し、その中をお互いの柳生十兵衛に行き来させる事によって、作中の能の幽玄的魅力を小説として体現している。
それぞれの柳生十兵衛の書き分けの見事さを含め、忍法帖シリーズにも通じる後期山田風太郎作品の代表作といっても過言ではない。

また剣豪小説しても秀逸である。
室町の陰流、慶安の新陰流というそれぞれ違う流派の使い手ながら能というキーワードの元にその剣術を昇華させた二人の柳生十兵衛の剣捌き振りは他に比類なき技として読者の脳裏に焼きつくし、その立ち振る舞いが能の如き描かれ方をするのも作品のコンセプトとして非常にしっくりくる。

ただあえていうならば、著者の柳生十兵衛に対する最強の剣豪として思い入れ、そしてこの物語の二重構造がもたらす必然的結末、柳生十兵衛柳生十兵衛の対決が読者には見えるだけに、最終章の対決場面がややシンプルに過ぎるかもしれない。
もちろん、稀代の剣豪同士の対決という意味では一撃で決着する(風太郎作品ではしばしばこのコンセプトが見受けられる)というのは当然かもしれない。
ただなぜ二人が剣を交えなければいけないかを丁寧に構築していただけに、もう少し魅せてもらいたかった。

もしかしたらこれは単なる贅沢なのかもしれない。山田風太郎ならばもっと描けるという。
ただ、この結末もらしいといえばらしいともいえる。
とにもかくにも山田風太郎柳生十兵衛に対する思い入れは十分に感じられるし、晩年に至りまだこのような発想を持ち合わせ、さらには水も漏らさぬようなきめ細かい物語を作り上げた著者に筆力・才能には感服するばかりではある。