『転校生』

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 山中恒ジュブナイルおれがあいつであいつがおれで』の映像化作品。一字違いの幼なじみ・斉藤一夫と一美は、石段から転げ落ちたことで、人格が入れ替わってしまう。二人はそのことを秘密にしつつ、なんとか元に戻ろうと努力するが……。大林宣彦の故郷でもある尾道を舞台に、シチュエーション・コメディの要素を含みつつノスタルジックな青春ドラマに仕上げている。
 
 
これは、僕が高校時代に書いた『大林的映画作品論』という論文から、『転校生』に関する部分を抜粋したものです。


インディーズの世界、そしてCM監督として確固たる地位を気付いた大林監督。
『HOUSE』でデビューして以降、薬師丸ひろ子主演『ねらわれた学園』に至るまで、一貫して商業映画の中で実験的手法を模索していた感があります。

しかし、本来大林監督は私的映画監督であり、それを形成したのは故郷でもある尾道であった。
ねらわれた学園』で商業映画で一つの区切りをつけた監督は、彼の原点である私的映画に立ち戻ろうとしていた。その中において尾道に舞台を求めたのは当然の帰結である。
 そして、尾道に戻った監督は尾道シリーズの出発点であり、尾道3部作の最初となる『転校生』の撮影に入るのである。

 『転校生』は、その製作過程において紆余曲折があった。その中でも最大のアクシデントは、予定していたスポンサーがクランクインの直前になって、その座を降りてしまった事である、その理由というのは、実に他愛のない事だった。『転校生』の脚本には、ストーリーの関係上、少女(現三谷幸喜夫人でもある小林聡美)が胸をだすというシーンが何箇所か書かれていた。
 スポンサーはこの点について、「このような猥褻なシーンが複数回ある映画は会社のイメージを損なうものであり、そのような映画はたとえ公開されても興行収入は望めない」、と説明している。現在、『転校生』の脚本は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・尾道』で読むことが出来るが、これはかなり面白い脚本になっている。これを読む限り、スポンサー側の人間には映画を見る目が無かったという他はないのであるが、とりあえず資金が無くては映画を撮れないので、先にロケ隊を尾道に送り出した後、監督やプロデューサーである監督夫人の恭子さんらは、共にスポンサーを探すことになる。
 結局、スポンサーは見つかり、映画も無事撮影されたのであるが、監督は後にこの事件について次のように語っている。

 「映画が一つダメになると、それに関わった人々の運命を大きく変えてしまう。そんな事をしては後々も後悔してしまうし、そのような事は断じてあっていけないと思っていた。」

 さて、そのような事件を経ながらも完成した『転校生』は、今までの大林映画にも見え隠れしていた監督の映画への熱い想いが一気に溢れ出したような、実に魅力的な映画だった。
 この作品は、主人公の少年の学校に幼馴染の少女が転校してくる所から始まる。二人は企画途中に誤って長い石段を転落、お互いの性別が入れ替わってしまう。物語はこの二人のドタバタ劇を中心に展開していき、その中で少年少女の思春期の悩める姿を描いていく。

 この思春期の少年少女の姿は、尾道シリーズの主人公としてこの後も登場してくるが、この作品の二人の主人公は、互いの性別が違うという、他の作品と大きく異なった要素が存在している。主人公は中学生であるが、この年齢というのは異性を意識し始める年齢である。
 冒頭で、体育の授業シーンがあるが、男子生徒達が見学している女子生徒の姿を見て、生理であるかどうかという会話をしているのも、その象徴であろう。大林映画に登場する少女は、ほとんどの場合において、その内面に壊れやすい何かを持っている。この少女の場合、小さい頃に大病を患い、その後遺症で足を少し引きずって歩いている。
 大林映画において、この少女のように身体的な障害を持っている例は稀である。なぜ監督はこの少女に障害者という立場を与えたのであろうか。

ここで考えなければいけないのは、この少女と主人公二人の相違点である。それは、前者があくまで外的障害の持ち主であるのに対し、後者は内的、つまり精神的障害の持ち主であるという事である。
 前者の少女の場合、その身体的障害は映画の中の登場人物のセリフによって語られている。これは、映画内の登場人物は少女の障害についてそのほとんどの人物が知っているという事を表している。
 逆に後者の場合、お互いの身体が入れ替わったという事実は、当人達と映画の外の人物、つまり観客にしか分かっていない。つまり映画の登場人物の視点からは主人公二人はただの正常な人間であり、周りから前者とはまったく異なる視線を受けるのである。少女と主人公達は同じ世界の中に存在していながら、その立場は両極にあるのである。
 監督は恐らくこの二つの存在を、映画的モチーフの対称系として配置して、主人公の立場をより明確にしたいと思ったのだろう。もしそうだとしたら、この試みは完全に成功したとはいえないだろう。なぜならば、主人公達の障害は身体的なものとは別の思春期の悩みに依存しているのに対し、その少女は幼年期からの障害であり、その悩みに思春期の立場はまったく影響を与えていないのである。この相違点は、二人の悩みがまったく交わる事を示しているのであり、対比というものの役割を果たしえないのである。
 逆に、その少女が二人の描写に影響を与えていない事は、二人の悩みが思春期という時間に大部分原因がある事をはっきり示している。

 では、主人公の二人にとって思春期というものは何だったのだろうか。単純に考えれば、子供から大人へと心身共に成長する時に生ずる葛藤だと思うのだが、監督はその微妙な年齢の二人に、「純粋」なものを求めたのではないだろうか。その表れとして考えるのが、身体が入れ替わる場面で、転げ落ちる二人と共に空き缶が一緒に落ちていき、その空き缶の音が反響音になっているところだ。
 二人が転げ落ちていく姿とオーバーラップする空き缶は、最後の段で大きく跳ね上がる。これは二人が身体入れ替わる事によって思春期を体験、乗り越えていく未来の暗示ではないだろうか、そして空き缶の「純粋」な音は、二人が入れ替わる事によって体験していく異性というものが、一般の大人社会で考えられるもののような性的な対象ではなく、むしろ子供から大人へと意識が移っていく時の、異性への「純粋」な象徴ではないか。
 また、二人が再び元の身体に戻るとき、同じように空き缶も転がっていくのだが、この時の空き缶の音もやはり「純粋」な音が使われている。この場合は二人の性が元に戻るという点で明らかに前者と異なる。
 おそらく、後者の「純粋」な音は、思春期を経て二人の主人公が大人へと成長したと同時に失った、「純粋」な興味心の象徴なのではないだろうか。そしてこの考えは、映画のラスト・シーン、少年が父の都合で横浜へ転校する時に見送りにきた少女に対して、別れ際に「さよなら俺。」と連呼するところに当てはまる。
 このセリフは、思春期の一瞬を過ごした少女の肉体に対しての別れ、自分の身体を所有していた少女への別れと同時に、二度と取り戻すことの出来ない思春期との決別の意味を持っていたと思う。大林はこの重要なシーンを、主人公の男の子の8ミリカメラで遠ざかる少女を映し続ける、という撮影方法を採った訳だが、これは思春期の「純粋」な気持ちを持ち続けたいという切実な監督の、映画的モチーフの表れなのではないだろうか。
 僕はこの映画を見るたびにこんな想いを受けるのであり、それは見失いかけた映画への想いを取り戻そうとした試みが成功したといえるのではないだろうか。