『オーデュボンの祈り』(☆3.8) 著者:伊坂幸太郎

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コンビニ強盗に失敗し逃走していた伊藤は、気付くと見知らぬ島にいた。江戸以来外界から遮断されている"荻島"には、妙な人間ばかりが住んでいた。嘘しか言わない画家、「島の法律として」殺人を許された男、人語を操り「未来が見える」カカシ。次の日カカシが殺される。無残にもバラバラにされ、頭を持ち去られて。未来を見通せるはずのカカシは、なぜ自分の死を阻止出来なかったのか?卓越したイメージ喚起力、洒脱な会話、気の利いた警句、抑えようのない才気がほとばしる!第五回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞した伝説のデビュー作。

yahoo紹介より

 

伝説のデビュー作とはまた大げさな^^;;
しかしこれが第1作目と考えると十分衝撃はあるのかもしれない。伊坂作品の定番といえる寓話的要素がふんだんに散りばめられた会話スタイルはこのデビュー作から確立しているし、物語のエピソードの積み重ね方もまたしかり。
もちろんこれ以降の作品と較べると構成そのものにはまだ粗い部分も感じられるし、会話の効果的な使われ方にしても甘さがある。そういった意味では若干読みにくさもあるし、外界との交流を絶った島という設定の使い方も物足りなさは感じる。

 

しかしながら、それ以上に作者の主張、というか作風的なものがこの1作目にして感じられるという意味では感心した。
人語を話し「未来が見える」カカシ。現実的にはありえない状況であり、そういった意味では一種の独自的ルールの元に構築されたパラレルワールドの物語。
近年、このパラレルワールド的な設定を持ち込んだ作品として僕が評価しているのは山口雅也の『生ける屍の死』なのだが、同じパラレルワールドといっても『生ける~』がゼロから構築していった空間なのに対し、こちらの舞台は現実的な世界のルールの中にもう一つルールを確立しているといった意味では差異があると思う。

 

ルールの中のルール。これは伊坂作品によく見られる傾向である。
例えば『重力ピエロ』の春であったり、『チルドレン』の陣内であったり、一般的なルールの中で独自のルールを課し(無自覚にせよそうでないにせよ)生きている。
日常的なルールと独自のルールを交錯させることによって現代社会の矛盾的なものを浮かび上がらせ、その事により読者は春であったり陣内であったりという存在に痛快さを感じさせてくれたと思う。
しかしデビュー作であるこの作品においては独自のルールの適用が個ではなく空間(この作品でいうところの萩島)に還元されており、その両者の接点、つまりは矛盾点の存在として神たるカカシという存在が置かれているのだろうと思う(この作品にも桜という個人のルールを持った人物が登場するが、そのルール自体が曖昧な為、読者としは春や陣内ほどの存在にはなれていない)。

 

むしろこの作品に近いのは、『魔王』ではないかと思う。
なぜそう思うかというと、独自のルールの根底にある集団心理という部分での共通点を持ち、その中心には神たる個の存在があるからだ。
そういった意味ではこの『オーデュボンの祈り』を出発点とし、数々の作品を経た上での著者の作家的主張の原点回帰という意味での『魔王』が存在そるのかもしれないし、この作品や『魔王』で見られるメッセージが伊坂幸太郎の本質であり、受動的な存在であった神に対してより能動的になった魔王の存在が著者の作家的成長、あるいは得た自信に裏打ちされたメッセージなのかもしれない。

 

この作品を読んでもう一度『魔王』を読んでみたくなった。


採点   3.8

(2006.10.30 ブログ再録)