『誰か』(☆4.5) 著者:宮部みゆき

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財閥会長の運転手・梶田が自転車に轢き逃げされて命を落とした。広報室で働く編集者・杉村三郎は、義父である会長から遺された娘二人の相談相手に指名される。妹の梨子が父親の思い出を本にして、犯人を見つけるきっかけにしたいというのだ。しかし姉の聡美は出版に反対している。聡美は三郎に、幼い頃の"誘拐"事件と、父の死に対する疑念を打ち明けるが、妹には内緒にしてほしいと訴えた。姉妹の相反する思いに突き動かされるように、梶田の人生をたどり直す三郎だったが…。

 

いまさらながら気付いたのが、このブログの記事で宮部みゆきの作品を取り上げた事は一度も無かった事。
厳密にいえば、「ミステリの映像化を振り返る(第2回 高村女王様&宮部みゆき王女様)」と映画『理由』の記事で取り上げてはいるのですが、作品という意味では一つも記事にしてないんですね~。

 

かといって宮部みゆきを読んでないわけではありません。最近(?)の「ICO」や「ブレイブ・ストーリー」といった長編は未読なもののミステリ系の作品はある程度詠んでるはず。
とにかく好きな作家さんではあるので。
というわけで、当ブログにおける最初の宮部作品『誰か』です。
おそらくは過去に読んではいると思うのですがさっぱりストーリーを憶えてないので、気持ちは初読。

 

登場人物を見つめる宮部みゆきの語り口はどこか優しい。
物語の主役である杉村一家の描写がとても素敵だからというのは大きいと思うが、登場人物の行為の発端はそれぞれの善意に始まる。
父の死に際し犯人を突き止めようとする妹、その調査依頼ならびに父との思い出を本にしたいという依頼に対し行動する杉村、かれを紹介した杉村の義父たる会長。
杉村自身はただの企業の出版部に勤める一会社人であり、プロの探偵ではない。彼の調査のよりどころになるのは訪れる先々で出会う人々の善意による協力である。
一方でその善意に対する悪意の矛先は、梶田を自転車で撥ね殺してしまった犯人であり、また聡美の過去において彼女を監禁したとされる人物の存在である。
善意側の人間がそれぞれの思いの元に無償で行動しているだけにその対比はより鮮やかである。

 

しかし中盤以降その善意と悪意の協会線の境目が曖昧になっていくにつれて、物語の鋭さが増していく。
ただそれ自体も決して鋭角的に突き刺さってくるのではなく、じわじわと滲み出てくるのもである。
その根本の部分を支えているのが、宮部みゆきが描く人物のリアリティにあるのだと思う。
ラスト、物語の冒頭から想像も出来ない残酷な展開が待っている。
それは決して後味の良いものではない。ものではないが、それもまた人間としての生き方なのだ突きつけられてしまう鋭さがある。
その代表が主要人物である姉妹だろう。作中、語りべである杉村は「人は一人では生きられない、誰かに話すことによりそれを共有しうる人を探しているの」というニュアンスの事をいう。その結果彼が出会ったのが、菜穂子という妻だったのである。
しかしながらこの姉妹においては、姉の聡美が語らなければいけない部分で語れず、妹の梨子が語るべきでない所で語らざるを得ない人生を歩んでこなければいけなかった。
そこから起こってしまった姉妹のすれ違いが引き起こした結末は、また人が人ゆえに起こしてしまう普遍的な悲劇の形の一つに見えてしまった。

 

改めて読み返してみて、個人的に東野圭吾の『赤い指』を思い出してしまった。
どちらにも共通するのが、人間が持つある種のエゴイズムの醜さであると思う。
ただ『赤い指』における家族の存在がややパズルのピース的なものに終わってしまったのに対し、この作品におけるそれは生々しく迫ってくる。
現在のミステリ界における男女それぞれのベストセラー作家ともいえる両者の差は、それぞれの特質という部分をあらわしているのかもしれない。

 

宮部みゆきの本領がより人間の内面を抉っていく事によって物語のリーダビリティを構成していくのに対し、『白夜行』に代表されるように東野圭吾はむしろそれを描かないという所においてより強い魅力を発揮できるのかもしれない。もちろん両作家とも逆のコンセプトにおける作品を書く技量は十分に有している(宮部みゆきでいうと『火車』であり『理由』であり、東野圭吾でいえば『片想い』や『さまよえる刃』あるいは初期の青春系作品群)のは疑いが無い。

 

しかしながらそういったそれぞれの代表作を比較した場合、より人間を描く事にその本質を感じさせる宮部みゆきの作品の方が好みといえるのかもしれない。


採点   4.5

(2006.10.23 ブログ再録)