AMAZONレビューより
大林監督による、「尾道三部作」の第2弾であり、監督の作品としてはもっとも有名な作品の一つではないでしょうか。
原作は筒井康隆の同名小説ですが、原作がわりとSF的な怖さを持っているのに対し、映画は3部作の特徴でもある、思春期の少年少女の揺れ動く心を描いており、原作の枠組みを借りた別の作品という趣きがあります。
映画としては、非常によく出来ていると思います。ヒロインと2人の男子生徒をめぐる微妙な三角関係が、時間を移動する能力を持ったヒロインの行動原理にうまくマッチしていますし、初恋の痛みが観客に伝わってきます。一歩間違えると、よくあるSF映画になってしまうところを、観客に懐かしい少年少女時代を思い起こさせ、ノスタルジックな感傷を味あわせてくれるあたりは、大林監督の本領発揮というところでしょうか。
主役の原田 知世の可愛さ、というか触れると壊れそうな置物のような儚い存在感は特筆物だと思います。しかし、この人は現在に至っても、この頃のちょっと現実離れした儚い美しさを保っているという意味で、ある意味化け物みたいな人だなあ(笑)。
吾郎ちゃん役の尾美としのりの切ない感も素敵ですね。
『時をかける少女』は、これ以降映画やドラマで何回も作られていますが、そのベースは小説版ではなく映画版であるという意味でも、リアルタイムで見た人には、忘れられない影響を持った映画ではないでしょうか。
ちなみに、劇中でヒロイン達が歌う“愛のため息”は強烈すぎる歌です。
以下ネタバレ
冒頭で原作の枠組みを借りた別の作品といいましたが、この映画の本来の原作というべき作品は、福永武彦の『夜の時間』だと思います。
この小説は、ヒロインはAとBの二人の男性から愛されます。ヒロインはこの中でAを愛するのですが、実はその深層心理の中ではBの方を愛している、というある種残酷な物語です。映画でいえば、Aが深町君であり、Bが吾朗ちゃんという事になるのでしょうか。
この映画でも、ヒロインである和子は、未来人である深町君により、自分の深層心理のすり替えを行われています。これは非常に残酷な事だと思います。本来吾郎ちゃんを好きであるはずなのに、自分では深町君を好きだと思ってしまう。つまり和子の初恋は作られたもの、という事になってしまいます。この映画を通して、和子の一種人形めいた存在感の根底にはこの部分があると思います。
劇中、和子は徹底して、脆く儚い現実感の希薄な少女像を貫いています。それは普段行動する時に下駄を履く事により、その存在の危うさを表現されていますし、やたらにありえないぐらい丁寧なお辞儀をするのも、彼女が今歩いている道が、現実ではないパラドックスの世界という意味の表れではないでしょうか。深読みすれば、タイムスリップに必要なラベンダーの香りも、麻薬の代替表現かもしれませんし。
物語のラスト、現実世界に戻った和子は吾郎ちゃんと結ばれたようです。でも、その表情には、過去に負ったトラウマが深層心理として残っているような、微妙な表情を持っています。それはラストで深町君とすれ違う部分にも現れているのではないでしょうか。
ある意味思春期の恋というのは、恋に恋する時間といった要素もあるのかもしれません。そこに隠された残酷製を併せ持った映画なんだと思います。